Fediverseの持続可能性への危惧
自分にとって、あまりにも悲しく残念な知らせが届いた。共にアカウントを所持していたおとすきー・ノベルスキー両サーバーが、来年2/22を以て閉鎖されることが発表されたのだ。
特におとすきーは、音楽活動をする自分にとっては文字通り、ネット空間における最大の居場所。今年は有志によるハードコアコンピアルバムにも参加させていただくなど、コミュニティとして物凄く大切にしていた。時期によっては、XやBluesky以上に自分にとって重要なホームグラウンドだ、と感じていたくらいだ。このような場所を用意してくださった、運営のたーびんさん(@tar_bin@otoskey.tarbin.net)には心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
しかし、それほどまでに愛着を持っていたサーバーだからこそ、危惧していることがある。Fediverseというネット空間の、特に足元の設計が本当に今のままで良いのか、ということだ。
現状、Fediverseの多くのサーバーは有志によるボランティアという形で運用されている。ごく一部の例外を除けば、志ある個人が(時には運営グループを組んで)運営し、利用者は寄付によりその負担を一部支える、という形になっている。その形そのものは非常に尊いものであり、批判されるべきでは全くない。
ただ、自分が改めて問いたいのは(これは何も今になって言い出したわけでなく、ずっと主張してきたことだが)、そのような「運営者の志やモチベーションや懐事情に、持続可能性が左右される運営方式」に、あまりにもコミュニティが依存しすぎていないか?ということだ。
これはかねてから指摘されていることだが、たとえ寄付を募ったとしてもサーバー管理者の金銭的・体力的負担は、決して小さなものではないと聞く。もちろん、俺は自分で鯖缶になったことはないし、それだけの技術力も経済力もないから、追体験することは不可能だ。ただ、それなりの規模のコミュニティを何年も維持していくことは、想像しているより遥かにハードだろう。
他方、ユーザー側はその「善意」で運営されているサーバーに長く参加し続けていれば、自然と愛着も湧くし「そのサーバーが存在することがある種の「日常の当たり前」になる。その「日常の当たり前」が、ある日突然当たり前でなくなる、その度に今回のような喪失と混乱が起こることになる。
これは誤解しないで欲しいんだけど、俺は何もサーバーを閉じることを決断した鯖缶の皆さんを責めたいのではない。サーバー閉鎖はすなわち運営の限界であり、その判断は当然尊重されるべきだ。むしろ、責められるべきは「たとえ自分の意思で開設したとはいえ、結果的に長期にわたって特定個人にコミュニティを支え続けることを強いる構造」だと思う。
もちろん、Xのような中央集権型SNSとは違い、分散型SNSは基本的に儲からないものだとはいう。今は企業運営の鯖もFediverseにはあるとはいえ、収益構造的にどこまで持たせられるかという不安はある。古くは、mstdn.jpが短期間で何度も企業間で売却された例などを見ても明らかだろう。
なので、これまでのFediverseではイマイチウケが悪いものの、地方公共団体によって税金で運営される、あるいはNPOなどの非営利団体が運営する、公共サーバーのようなアイデアが、そろそろ本格的に検討されるべきではないかという気はする。どのように、地方公共団体にFediverseという概念を理解してもらうかなどの課題はあるものの、営利を目的とせずかつ長期間の安定運用を前提としたモデルは、むしろ本来Fediverseの主軸であって良いのではとすら思う。
個人運営のサーバーは、今までも重要な役割を担ってきたし、これからもそれは変わらないだろう。多様性を大事にするなら、個人運営のサーバーはこれからも軸の一つであり続けるべきだ。だが、軸の一つとしては大事であっても、本当の意味での持続可能性を考えるなら、「主たる軸」であるべきではないだろう。せっかくの、この素晴らしいネット空間を自分たち自身の手でダメにすることがないよう、今こそみんなで考えるべきじゃないだろうか。
特におとすきーは、音楽活動をする自分にとっては文字通り、ネット空間における最大の居場所。今年は有志によるハードコアコンピアルバムにも参加させていただくなど、コミュニティとして物凄く大切にしていた。時期によっては、XやBluesky以上に自分にとって重要なホームグラウンドだ、と感じていたくらいだ。このような場所を用意してくださった、運営のたーびんさん(@tar_bin@otoskey.tarbin.net)には心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
しかし、それほどまでに愛着を持っていたサーバーだからこそ、危惧していることがある。Fediverseというネット空間の、特に足元の設計が本当に今のままで良いのか、ということだ。
現状、Fediverseの多くのサーバーは有志によるボランティアという形で運用されている。ごく一部の例外を除けば、志ある個人が(時には運営グループを組んで)運営し、利用者は寄付によりその負担を一部支える、という形になっている。その形そのものは非常に尊いものであり、批判されるべきでは全くない。
ただ、自分が改めて問いたいのは(これは何も今になって言い出したわけでなく、ずっと主張してきたことだが)、そのような「運営者の志やモチベーションや懐事情に、持続可能性が左右される運営方式」に、あまりにもコミュニティが依存しすぎていないか?ということだ。
これはかねてから指摘されていることだが、たとえ寄付を募ったとしてもサーバー管理者の金銭的・体力的負担は、決して小さなものではないと聞く。もちろん、俺は自分で鯖缶になったことはないし、それだけの技術力も経済力もないから、追体験することは不可能だ。ただ、それなりの規模のコミュニティを何年も維持していくことは、想像しているより遥かにハードだろう。
他方、ユーザー側はその「善意」で運営されているサーバーに長く参加し続けていれば、自然と愛着も湧くし「そのサーバーが存在することがある種の「日常の当たり前」になる。その「日常の当たり前」が、ある日突然当たり前でなくなる、その度に今回のような喪失と混乱が起こることになる。
これは誤解しないで欲しいんだけど、俺は何もサーバーを閉じることを決断した鯖缶の皆さんを責めたいのではない。サーバー閉鎖はすなわち運営の限界であり、その判断は当然尊重されるべきだ。むしろ、責められるべきは「たとえ自分の意思で開設したとはいえ、結果的に長期にわたって特定個人にコミュニティを支え続けることを強いる構造」だと思う。
もちろん、Xのような中央集権型SNSとは違い、分散型SNSは基本的に儲からないものだとはいう。今は企業運営の鯖もFediverseにはあるとはいえ、収益構造的にどこまで持たせられるかという不安はある。古くは、mstdn.jpが短期間で何度も企業間で売却された例などを見ても明らかだろう。
なので、これまでのFediverseではイマイチウケが悪いものの、地方公共団体によって税金で運営される、あるいはNPOなどの非営利団体が運営する、公共サーバーのようなアイデアが、そろそろ本格的に検討されるべきではないかという気はする。どのように、地方公共団体にFediverseという概念を理解してもらうかなどの課題はあるものの、営利を目的とせずかつ長期間の安定運用を前提としたモデルは、むしろ本来Fediverseの主軸であって良いのではとすら思う。
個人運営のサーバーは、今までも重要な役割を担ってきたし、これからもそれは変わらないだろう。多様性を大事にするなら、個人運営のサーバーはこれからも軸の一つであり続けるべきだ。だが、軸の一つとしては大事であっても、本当の意味での持続可能性を考えるなら、「主たる軸」であるべきではないだろう。せっかくの、この素晴らしいネット空間を自分たち自身の手でダメにすることがないよう、今こそみんなで考えるべきじゃないだろうか。