作品解説によって体験にうまくフォーカスできなかった理由について改めて考えた。

解説の一部を引用する:
「観客は、庭を散策するようにゆっくりと歩みながら、従来のリニアな体験とは異なる時空間の拡がりと流れを体験する」
「霧と光と音が一体となり、自然への敬愛や畏怖の念を想起させるような夢幻のシンフォニーを奏でる」

言葉を抽象的にすれば体験が開かれるのかといえば、そうではないという良い (悪い) 例。
まずこれらは、感覚・知覚の方向性を代理で表現してしまっている。言葉というのは本当に強くて、作品を体験する前に読んでしまうと、否が応でもこの方向性に行動が縛られる。「庭を散策するようにゆっくりと歩」まなければならないし、「自然への敬愛や畏怖の念を想起」しなければならなくなる。
それと、言葉の抽象性が「作品の神秘性を意図的に演出」する方向に働いている。このように神秘化されてしまうと、その意味を理解しようとする思考モードになって、作品体験からは離れることになる。
これが、ずっと「なんか体験しづらい」という感覚に終始することになった原因だと思うし、こういう作品解説ってよく出会ってしまうような気がする…
QT: fedibird.com/@maisukegawa/1141
[参照]

作品解説で体験が良くなった例で鮮烈に覚えているのは、ゴッホ美術館での音声解説だった。
最初のセクションで、ゴッホの自画像がいくつか並べてあったのだけど、そこで「目の色がすべて違うのです」という一言で、「え!そうなんだ!」と一気に惹きつけられて、一枚一枚良く見るようになった。
これは感覚的体験への没入とはちょっと違う、知識としての面白さの側面のほうが強いかもしれないけど、何も神秘化せず、体験を妨げない、もう一歩深く作品を見ようとさせてくれるのに充分な解説だった。

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