【お絵描きエッセイ】ヌードを描く

今年3月のTAMAコミペーパーに書いたエッセイです。

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 絵を描いているとぶち当たる壁のひとつに、「人体のわからなさ」がある。

そこで、先達から得た情報をもとに、クロッキー会、それもヌードのモデルさんを描くものに参加してみることにした。

 参加した回では、モデルさんは女性。「筋肉がついていながらも、カーブが美しい人物」と紹介されていた。

 簡単なレクチャーの後、会場中央にモデルさんが立つ。わたしが参加した会では各ポーズは短めで、1分、3分、5分、長くて10分。それを何セットか。ポーズが始まると、会場には鉛筆など画材が走る音だけが響く。

ただ、誰かの裸体が目の前にあって、それをよく観察し、夢中で描く。それだけのことを繰り返すうちに、さまざまなことに気づきはじめる。

 まず、裸なので、見えないところがない、ということ。その描きやすさとわかりやすさ。世界でもっとも隠されている部位といえる、股間も含む構造がわかることのありがたさ。

 途中で、あれ? と思う。

裸体をこんなにフラットに見たことが、かつてあったろうか。人が人前で裸になる。それを見る人がいる。その構図があるとき、たとえばそれが映画や写真集なら「大胆ヌード」と評されるだろう。裸については、「一糸まとわぬ」「生まれたままの姿」などということばもあるが、服を着た状態がわざわざ語られることはない。それぐらい人間は当たり前に服を着ている。反面、人前で誰かが裸であることは異常というか、非日常なのだ。

 非日常ではあるけれど、「描く」目的のための裸には、特別な意味はない。エロティックなものとしてではない、裸。銭湯にいけば、それに近い他者の裸と出会うことではできる。が、社会的なマナーとして、他者の肉体に視線を送ることはない。

 銭湯とクロッキー会が違うのは、モデルさんは「見せる」ために裸になり、参加者は裸体をしっかりと「見て」「描く」ためにそこにいるということだ。

 衣服やマナー。わたしたちはふだん、裸体から物理的にも心理的にも遠ざけられている。わたし自身は、自分の肉体からも目をそらしがちだ。

一方で、クロッキー会では、裸体と我々を遠ざけるものがとっぱらわれている。そうやってフラットに他者の肉体を見たのは、おそらく生まれてはじめてのことだった。

 そうして感じたのは、「人間の体って、美しいものなんじゃないのかな」ということだった。目の前のモデルさんはもちろん、さまざまな努力により、美しい肉体をしている。しかし、その個別の美を飛び越えて、どんな肉体も美しさを持っているのではないか、という予感があった。猫を見て「しなやかで美しい」と自然に思うのと同じような感覚が、人間の肉体にも宿ったのだ。

 そうして、「ああ、わたしもその肉体を持っている、ひとりなんだ」と思った。

 これらはいずれも非常に感覚的で、個人的なものだ。「素」の肉体に向き合ったとき、感じることは人それぞれだろう。ともあれ、クロッキー会での経験は、確実にわたしの「人間の肉体」への意識を変えてくれた。

「ふーん、ひねるとここがこうなるのかあ」。入浴前に鏡の前で裸になり、体を動かして、観察してみる。「老いたなあ」「お腹出てる?」「なんとなく気まずい、目をそらしたい」そういったジャッジや忌避感抜きに、裸を見る。それは絵を「描く」ことで獲得した「目」だ。

 絵を描いて、肉体との向き合い方、付き合い方が変わる。紙と鉛筆があればできる「描く」行為の奥深さを、またひとつ感じたできごとだった。

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